ちょうど1年経ちました
初めて東北に支援に行ったのが、ちょうど1年前の今日。
福島・二本松での炊き出し。当時、震災の被害を被り、原発事故から家を追われた南相馬、富岡、浪江の住民が身を寄せていた避難所。すべてそこから始まった。何かしなきゃいけないという気持ち。同時に、自分の目で見たい、感じたいという思いが手を挙げさせた。16年前、阪神淡路大震災から1年後の神戸を訪れたことも、東北へと駆り立てる動機になったかもしれない。多少は元に戻りつつあった三宮辺りにも傷跡は残っていたし、それ以上に長田の焼け野原は、鮮烈に脳裏に焼き付いた。東北の至る所に、そんな光景があると思うと、いてもたってもいられなかった。
以来、何かに突き動かされるように、北へと何度も足を運ぶことになった。回数26回、活動日数37日。単に気持ちに任せて動いただけなのだけれども。時間には融通が利いた。動ける自分の環境、ありがたいことだったと自身では思う。5年前、10年前に同じ状況に置かれていたとしても、きっと動けなかった。動く気持ちになったかもわからない。
活動を通じて、掛け替えのない多くのご縁をいただいた。共に東北に向かった戦友達。被災地で出会った人々。ほんの1年間での出会いなのに、濃密。たぶん10年、20年の付き合いになるのだろう。仕事はおろそかになったかもしれない。でも、仕事は取り返せても、この1年の活動は、この先の1年に置き換えることは決してできなかった。
身の丈で10年、という指針は当初と変わらない。やれる範囲で無条件継続。とは言え、支援のやり方は震災から2年目に入って、とても難しい局面に入ってきてもいる。ただ、思いに任せて東北に通い続けたかつてのやり方では立ちゆかない。資金面での課題もある。うんと知恵を絞る必要がある。仕事だって、そうはおろそかにできない。
それはそうと、自分の中に蓄積された経験をいずれアウトプットしたい、しなければいけない、という気持ちがある。まがりなりにも、仕事で「文章」に関わり、表現する世界で生きてきた。といいながらも、思いのほか気持ちが強すぎて、こと東北のことに関しては、前のめりになっている自分がいることも知っている。現段階では、まとまるとは思えない。
なんとなくこれも、10年スパンで形にしていければいいのかなとも思っている。安易にやるより、きっといい。現在進行形。先は長い。
まあ、結局のところ、10年のうちの1年に過ぎぬということ。まだまだみちのくと共に歩みます。
福島・二本松での炊き出し。当時、震災の被害を被り、原発事故から家を追われた南相馬、富岡、浪江の住民が身を寄せていた避難所。すべてそこから始まった。何かしなきゃいけないという気持ち。同時に、自分の目で見たい、感じたいという思いが手を挙げさせた。16年前、阪神淡路大震災から1年後の神戸を訪れたことも、東北へと駆り立てる動機になったかもしれない。多少は元に戻りつつあった三宮辺りにも傷跡は残っていたし、それ以上に長田の焼け野原は、鮮烈に脳裏に焼き付いた。東北の至る所に、そんな光景があると思うと、いてもたってもいられなかった。
以来、何かに突き動かされるように、北へと何度も足を運ぶことになった。回数26回、活動日数37日。単に気持ちに任せて動いただけなのだけれども。時間には融通が利いた。動ける自分の環境、ありがたいことだったと自身では思う。5年前、10年前に同じ状況に置かれていたとしても、きっと動けなかった。動く気持ちになったかもわからない。
活動を通じて、掛け替えのない多くのご縁をいただいた。共に東北に向かった戦友達。被災地で出会った人々。ほんの1年間での出会いなのに、濃密。たぶん10年、20年の付き合いになるのだろう。仕事はおろそかになったかもしれない。でも、仕事は取り返せても、この1年の活動は、この先の1年に置き換えることは決してできなかった。
身の丈で10年、という指針は当初と変わらない。やれる範囲で無条件継続。とは言え、支援のやり方は震災から2年目に入って、とても難しい局面に入ってきてもいる。ただ、思いに任せて東北に通い続けたかつてのやり方では立ちゆかない。資金面での課題もある。うんと知恵を絞る必要がある。仕事だって、そうはおろそかにできない。
それはそうと、自分の中に蓄積された経験をいずれアウトプットしたい、しなければいけない、という気持ちがある。まがりなりにも、仕事で「文章」に関わり、表現する世界で生きてきた。といいながらも、思いのほか気持ちが強すぎて、こと東北のことに関しては、前のめりになっている自分がいることも知っている。現段階では、まとまるとは思えない。
なんとなくこれも、10年スパンで形にしていければいいのかなとも思っている。安易にやるより、きっといい。現在進行形。先は長い。
まあ、結局のところ、10年のうちの1年に過ぎぬということ。まだまだみちのくと共に歩みます。
素晴らしきスーパーひたち

毎年恒例の水戸詣で。
今年は、運良く春から導入されたらしい、新型スーパーひたちで向かうことに。各席電源が取れる、ビジネスマン仕様。さながら、モバイルオフィスの様相を呈しております。
でも、水戸までは1時間ちょい。仕事するには、短すぎる…。
いつもの日曜日
今日はわがまま言わせてもらって、静かにいつも通り過ごす日曜日。
けれども、朝から心がわさわさと落ち着かない。
鎮魂の花火をあげた仲間たちがいた。
法要の炊き出しのために現地入りしている仲間たちがいる。
チャリティライブをする仲間たちがいる。
今も変わらず思いは一緒。
そう知っているだけに、穏やかでいられないもうひとりの自分がいる。
でも、今日という日は、ひとつの区切りではあるけれど、始まりでも終わりでもない。
足元を見つめ直す一日にしようと、考えに考えぬいて決めたんだ。
東京から祈ります。
けれども、朝から心がわさわさと落ち着かない。
鎮魂の花火をあげた仲間たちがいた。
法要の炊き出しのために現地入りしている仲間たちがいる。
チャリティライブをする仲間たちがいる。
今も変わらず思いは一緒。
そう知っているだけに、穏やかでいられないもうひとりの自分がいる。
でも、今日という日は、ひとつの区切りではあるけれど、始まりでも終わりでもない。
足元を見つめ直す一日にしようと、考えに考えぬいて決めたんだ。
東京から祈ります。
恋してる
早いもので丸5年である。
2006年が明けて間もなく出会って、10月はじめに上下巻2冊の本になった。あれよあれよという間にミリオンになって、翌年映画化もされた。まあ、よくある話と言えばよくある話。でも身近にはそうそうあるもんでもない。
そこに至るまで、語り尽くせぬ思い出がある。それを改めて噛みしめる節目の5年。
物語は「空に…恋してるんだ。」という一節で結んでいるが、当時そんな物語に恋していた。
いまだに恋している自分がいる。
2006年が明けて間もなく出会って、10月はじめに上下巻2冊の本になった。あれよあれよという間にミリオンになって、翌年映画化もされた。まあ、よくある話と言えばよくある話。でも身近にはそうそうあるもんでもない。
そこに至るまで、語り尽くせぬ思い出がある。それを改めて噛みしめる節目の5年。
物語は「空に…恋してるんだ。」という一節で結んでいるが、当時そんな物語に恋していた。
いまだに恋している自分がいる。
中秋の名月

被災地で見る中秋の名月に胸が締め付けられる思いがした。
3度目の南相馬へのボランティアとなった昨日、7月の2度の訪問で原町第二中学避難所にてお世話になった高橋誠校長を相馬市に尋ねた。震災で当時勤めていた学校をまるごと流され避難所を世話していた校長は、8月から相馬市の飯豊小学校に着任したという話を聞いていた。
相馬の被害も見て欲しいと、案内してくれることになった。相馬の松川浦や太平洋の湾岸、そしてその周囲に広がる広大な平野を臨める高台に向かう。校長が示すはるか先には、ところどころが決壊した堤防が、おそらく1km近く左右に広がり、筒抜けになった堤防の合間から白い波が見える。本来見えるはずのなかった白波。
その手前には、海岸線に沿うように美しい松並木が連なっていたのだというが、その名残は松川浦側に松の木がわずか数本残るのみ。すでに一帯は一面が広大な荒野となっている。海岸沿いに民宿が集まっていたことも、その手前に街が存在していたことも、まったく頭に思い浮かべることはできない。まったくのまっさらな荒野。
過去に三陸沖地震やチリ地震による津波の経験値のある三陸と違い、大きな津波被害の歴史を持たぬ相馬。それでもしっかりと備え、築かれていた堤防、そして松並木。でも、想像をはるかに超えた今回の自然の脅威には、あまりにもちっぽけ過ぎる存在だった。

車を走らせ、海岸へと向かう。先ほど遠方に見えた堤防のすぐ近くまで訪れる。おそらく海の際から2、300m。そこには、かつて校長が勤めていた相馬海浜自然の家があった。校舎こそその形状を確認できるが、その中身はすっかり波にされわれている。その横には、建物ごと持っていかれてしまった体育館。辛うじて残る土台には、カラフルなラインが引かれた板張り床のコート。その上に立つと、そこで球技に勤しんでいた子供たちの姿がふと頭をよぎる。

震災当時、海と目と鼻の先の校舎にいた校長は、30分後に訪れる津波を予想して速やかに避難し助かった。幸いにも、すべての子供たちも津波の餌食になることはなかった。それでも、その後訪れた変わり果てた職場の成れの果てには言葉が出なかったという。校舎の屋上は松の木に貫かれ、軽トラックなど数台の車が校舎つきささっていた。傍らには新車だったはずのインサイトが、どうしたらこんな形に圧縮されるのかという形状で横たわっていたという。

噛み締めるように当時を語ってくれる校長の目は、心なしか潤んでいるようにも見える。「思い出すのは辛いけど、口にしておかなければならないんです」と話してくれた。悲しさと悔しさを滲ませる校長の表情を見ると、かける言葉も慎重になってしまう。それでも、もっともっと話を聞きたいし、聞かなければならないんだと思う。今度は話を聞くためだけにお邪魔させて欲しいと申し出た。
実は、自分の行きつけの寿司屋の大将が相馬出身。そんな大将の願いもあって、今回のボランティアに大将の娘さんに手伝ってもらった。帰りに聞いたところ、幼い頃にこの松並木の海岸に家族で来た記憶があるという。まともには見れなかったが、現場では俯いて涙を浮かべていたように感じていた。幼少期の話を後から聞いて、それが確信に変わった。

写真は、校長に案内された相馬海浜自然の家の前から見た中秋の名月だ。決壊した防波堤の彼方の水平線から、月のうちでもっとも丸く、日本人にとって一年のうちでもっとも思いの募る月が昇り始めていた。高橋校長、寿司屋の娘、大将、そして今回相馬にお邪魔したメンバーそれぞれの気持ちが、月夜に複雑に交錯した。








